もう10年近くも昔のお話です。
仕事の都合で赴任していた東欧の小国、
初めての海外での生活は、楽しくもそこはお仕事、大変でもありました。
いろいろとありまして、その間の帰国は全く無し。
・・・コロナ禍の昨今、今赴任している方々のご苦労が忍ばれます。
暫くの間、触れられることの無かった日本の風情。
帰任した最初の夏の週末、ふと一人で日帰りドライブに。
帰国後も続いた忙しい毎日でした。
でも、久しぶりは風任せ、気分転換は行く当てもない、一人孤独な徘徊を。
・・・今思えば、ひょっとして、年甲斐の無い「自分探し」、
何かを求めての「ふらり旅」だったのやも・・・
岐阜はR41を飛騨川沿いにひたすら北上、山に囲まれた小さな町、
そこから気の赴くまま、ふらりと左折は山に分け入る県道へ。
折れて直ぐの県道の頭上、そこには大きな蝶の看板が。
自宅を出立してから小一時間でしょうか、とある道の駅で休憩です。
その道の駅の横には、初夏の眩しい光の中、きれいな川が流れていました。
缶コーヒーを片手に土手を登り、
タバコを煙らせながら川を覗き込むと、そこには何名かの釣り人が釣りを。
その当時、「渓流釣り」の言葉は知っていましたが、
アユ釣りとの区別に至っては、とんと、知識も無く。
それでも、釣り人を眺めていると、
流されそうな急流の中、ぽつぽつとお魚が掛かります。
はた目からでしたが、それは、とても、楽しそう。
・・・何よりも、
川の流れはせせらぎの音、川面を渡る心地よい風の感触、
そして雲間から時折で照り付け、流れから跳ね返る夏の厳しい太陽、
これが「日本の風景」と申しましょうか・・・
町育ちの小生ですが、とても懐かしいもの、
それと同時に、流れに分け入る川の釣り、それに野性味を感じたのです。
おもしろそうだな・・・
山の中の渓流でお魚を釣る、という行為自体は、
その数年前にノンタンさんのご指導の元で、
僅かですが経験済みではありました。
でも、その当時は・・・
「こんな日の出前からわざわざ起き出して、
眠たいのに朝食もそこそこ、寂しい川の際で”立ちんぼ”なんか。
さっきから糸を垂らしているけれど、さっぱり釣れないじゃないか。
何が楽しいンだろう?渓流釣りなんて。」
その当時も慌ただしい毎日を送っていて、
こんな感想でした・・・
アユ釣りを見学した翌々週の週末、
ネットでさらりと「渓流釣り」を調べてから、
押し入れの奥から4.5mの安物延べ竿を取り出して、
小生のその足は、郡上八幡の小駄良川へと向かっていました。
ブドウ虫をエサにエエコロ加減な仕掛け、長靴を履いて風情ある町裏での釣り。
それでも・・・
掛かるお魚は小魚ばかり。
でも、どういう訳か、ワクワク感と共に、お魚の感触が懐かしくも楽しくて。
・・・その釣行の翌週、早くも漁協で年券を購入。
その夏は毎週末で「郡上詣で」でした。
今思えば、なぜ、こんな気負いが在ったのか。
「毎週末で釣りに出かけて、これで良いのだろうか?」
ご多分に漏れず、30~40代は「仕事漬け」の毎日でした。
ふっと、40代も後半に差し掛かり50の手前、若干で時間に余裕が生まれ。
それでも心のどこかに、
今までと違う生活の変化、渓流釣りという趣味が加わった生活、
それに戸惑っていたのかも知れません。
・・・自分から進んで選んだ「変化」なのに。
いえ、だからこそ、負い目があったのかも??
今では釣行の朝、全くそんな感覚は無くて・・・
釣行から帰宅した夜は、夕食が美味しくて、とてもぐっすりと眠れます。
そして、週明け。
むしろそんな週明けの方が、しっかりと集中できるような。
・・・ただこれも、土曜日午前の釣り、それに限りますね。
小生、50代も後半、日曜日の釣行は翌日に響いちゃって・・・
もう間もなくで、渓流釣りが解禁です。
仕掛け、装備、それからシーズン中は疎かに成りがちな家事一切。
そんなことを片付けながら、
なんでウキウキしながら糸を繰っているのか、
冷静に第三者目線で自分を見てしまう、今日この頃の小生です。
<渓流風景はその当時の馬瀬川下流と、その後に通った郡上八幡から>