2023年8月18日金曜日

映画「A river runs through it」

 

このお盆休みに映画を見ました。

邦題名は「リバー・ランズ・スルー・イット」。

この題名から「イット」の意味が気になります。
川が、何を・何処を、流れ過ぎていくのか?

渓流釣り(フライ・フィッシング)とある家族の生き様を絡めた映画、
見終わると「イット」の指し示す意味が見えて来ます。

舞台は100年ほど前のアメリカ北西部、
ロッキー山脈を流れ下る川のほとりは田舎町にて。

鉄道はもちろん汽車ですが、
古めかしくも既に自動車は存在し、
小道具としての釣り具は、時代設定が為されているのか?
見た限りでは現代のフライ用の竿やリールと同じ感じのようです。


厳格な牧師の父とその息子は二人の兄弟、
兄は秀才肌でまじめなタイプ、弟は少々やんちゃで豪快、
そんな個性豊かな親子の共通点は大の釣り好きでフライ・フィッシャー。

人が生きていく上で、さまざまな問題に直面し、
その解決や対処にはその人の個性や能力で方法が別れます。

その際に生じるやり方の違いは、そこは個性と意見のぶつかり合い。
時にはケンカにも発展しますが、いずれは家族です、仲直りへ。
その仲裁の証(あかし)がフライ・フィッシングなのです。

物語はこの兄弟の兄の視点で描かれていきます。


幼い兄弟は渓流釣りの基礎を父から受けるも、
そこから先の腕前、その発展はそれぞれの個性が光ります。

・・・僭越ではありますが小生、
この兄弟の兄に似ているか、弟に似ているか、と問われれば、
私事で恐縮も長男たる身の上は小生、ほぼ間違いなく兄の方なんです。

そんな自分が思うにも、
映画の中で大胆・豪胆な弟(役:ブラッド・ピット)の方が腕前は上。
何となくですが、判るような・納得できるような、そんな気がするのです・・・

物語の中で青年となった兄弟、
努力家の兄(ここは小生、堕落家です)は大きな人生のチャンスを掴みます。
大都会の大学での教授としての道。

釣りの腕前は兄より上も、
地元の新聞記者として生きるのですが、
人生の「駒運び」は釣りのそれとは一致せず、
時には警察のご厄介や、ギャンブルで借金を抱え、くすぶった道を歩む弟。


兄からの都会での新たな生活の誘いに、
弟は故郷のロッキー山脈の麓での生活を選びます。

「ここでの釣りが俺の全てなんだよ。」
「原住民(インディアン)の彼女と別れられない。」
「自分の生き方は自分で決めるよ、ありがとう。」

劇中で兄の誘いを断った弟、
その心中はセリフとして描かれていませんが、如何ばかりのものだったのか?

兄も兄でギャンブルや借金に苦言を呈すも、
強引に弟の生き方を変えさせる、などと言うことはせず。

変わる生き方、変えたい生き方、でも、変えられない生き方。
そこはもう、二人とも、既に大人なんですね・・・




もう間もなくで故郷を離れる兄。
父と兄と弟で暫くは一緒に出来ないであろう、渓流釣りに出かけます。


・・・しかし、役どころとはいえ、ブラッド・ピットはムチャです。

小生だったら絶対に渡河しないであろう激流、
そこに首まで漬かりながら、
お魚のかかった竿を離さず、流れに身を任せます。

成り行きに心配する父や兄の心は何のその、
激流の終わりは平瀬にて、
1mもあるであろう大ニジマスを竿にぶら下げ、
弟は立ち上がって誇らしげに父と兄に満面の笑みを返します・・・


この直前は劇中での弟の目線、振込みポイントの選び方、
これはきっと、渓流釣り経験者が撮影時に演技指導をしたのでしょう。

流れに沈む大岩と大岩、それに挟まれた流れの弛み、
そこを目掛けてブラッド・ピットはフライの毛バリを打ち込みます。

・・・自分もミミズを振り込むなら、きっとそこですね、間違いなく!
しかしながら、恐らく釣果は7寸イワナ、でしょうかね・・・

この釣行の翌日、弟はギャンブル絡みの事件で、その命を落とします。


「渓流釣り好きには堪らないよ」と勧められ、いつかは見たかった映画。

最後のシーンは年老いた兄がひとり、
夕まづめは山河の流れに幾度もフライを打ち込みます。

戻る事の出来ない過ぎ去った過去や、今はもう居ない家族を顧みながら。


川の流れのように止まることなく、また、逆らうことも難しい人生です。

自分にも、恐らくは誰にでも、重なるであろうこの回想シーン、
夕まづめの寂しい渓流と人生の黄昏時がマッチして、とても印象的でした。




<渓流風景は初夏の石徹白川から>